縄文時代の人々は道具として主に石器を使っていました。
ところが、弥生時代じなると金属器(金属で作った道具)が現れてきました。
しかし、この金属器を最初から日本で作り出されたものではなく米と同じように他所から伝えられたものでした。
特に初めのうちはみんな道具になって渡ってきたようです。
地金のままで渡ってきて日本で道具に作り変わったのは少し後のことだと考えられます。
金属器は切れ味がよく、しかも丈夫で石器などより遥かに便利でした。
そのため金属器が広まるにつれて石器は段々と使われなくなってしまいました。
この頃の日本で使われていた金属器は青銅器と鉄器です。
世界の文化の発展の仕方は石器時代から銅器時代・青銅器時代・鉄器時代と移り変わっていくのが一般的です。
けれど、日本へは他所からかなり進んだ文化が入ってきたため普通の発展の仕方とは大分違っています。
北九州では弥生時代の一番古い時期にはもう鉄器が使われていたようです。
恐らく鉄器と青銅器はほぼ同じ頃に作られたか、あるいは寧ろ鉄器の方が幾分か早くに伝えられたと考えられます。
金属器にはクワ・スキの先に付けるものや、カマや剣・矛・矢じり・鏡などたくさんの種類があります。
この他、中国から渡ってきた銅の貨幣も金属器の一種と言えます。
銅剣には大体、二種類あります。
その1つは、すらりとした小型のもので先が鋭く実用品として使われていたと思われます。
おそらく中国か朝鮮から渡って来たものが多いでしょうが日本で作られたものもあります。
もう一つは全体が平たい形をしていて先も鋭くありません。
また、刃の幅が広く非常に大きくて実用品とは考えられないものです。
これは恐らく日本で作られたもので儀式の時に飾りとして使われたものと思われます。
矛というものは槍と同じように突く武器の一種です。
根元が袋のようになっていて柄を差し込むように作られています。
この銅矛にも刃の幅が細くて先が鋭い実用品と思われるものと刃の幅が広く先が鈍くて実用品にはならないようなものとがあります。
そして銅剣と同じように先の尖っているものは大陸から伝わったものが多く先の鈍いものは日本で作られたものと考えられています。
銅たくは日本独特の金属器です。
今までにはおよそ300の銅たくが発見されていますが全部日本で作られたものと考えられています。
形は大体は釣鐘に似ていて小さなものは高さがわずか10センチあまりですが、大きなものになると高さが150センチもあります。
今のところ銅たくは何に使われていたのかよくわかりません。
楽器であったという説もありますが、それにしては非常に大きなものもあります。
これも儀式やお祭りの道具であったのかもしれません。
この頃の鏡は大陸から渡ってきたもので銅で作られています。
そして、そのほとんどが当時中国にあった漢という国(紀元前202年~紀元後220年)のものであることが鏡に入っている年号によって日本の弥生文化の年代を知ることができます。
この鏡は主に北九州の遺跡から発見されています。
鏡は表をよく磨いてものを写すようにしたものですが、この頃の人々はこの鏡を非常に不思議なものと考えていました。
そのため極わずかの人々が持っていただけで宝物のように大切にされていました。
貨幣は鏡とともに年代を知る大切な手がかりになるものです。
日本でその頃、貨幣が実際に使われていたかどうかわかりませんが中国では早くから貨幣が使われていました。
この貨幣にはいろいろな種類がありますが日本へ渡ってきてしかも年代が、はっきりしているのは貨泉というものです。
貨泉は直径がおよそ2センチあまりで表に四角の穴を挟んで「貨泉」という文字が入っています。
貨泉は大体、紀元10年頃のもので、佐賀県・熊本県・京都府などの弥生文化の遺跡から発見されています。
銅剣・銅矛の分布と銅たく(銅鐸)の分布
この頃の金属器について特に不思議なことは銅剣や銅矛が発見されるところと銅たく(銅鐸)が発見されるところが違うことです。
銅剣や銅矛が発見されるところは北九州を中心にして瀬戸内海沿岸・四国などに広がっています。
しかし、そのほかの地方からは銅剣や銅矛はほとんど発見されません。
これとは反対に銅たく(銅鐸)は近畿地方を中心にして、西は中国・四国地方から、東は東海地方にまで広がっています。
けれども銅剣・銅矛がたくさん発見される北九州をはじめその他の地方からは銅たく(銅鐸)はほとんど発見されていません。
このことについて学者の間でもいろいろな意見が出されています。
今のところはまだはっきりとしたことはわかっていませんが、恐らく北九州と近畿地方の文化の様子が幾分違っていたのではないかと考えられています。
日本の歴史は未だわからないことが多いのです。