今回は平安時代における貴族の政治について、日本の歴史を紹介します。
律令による政治の仕組みでは、貴族にも一般の人々にも、公平に口分田をわけ、同じように租税を取立てる、才能があれば、誰でも役人になることができるという建前でした。
ところが、実際には、それほど公平ではありませんでした。
一般の人々は重い租税で苦しんでいるのに、貴族たちは、調や庸・雑傭などの苦しい義務を、免除されました。
その上、官位に応じて、それぞれ土地や布、その他いろいろなものが、国から与えられました。
また、そればかりではなく、役人の子や孫は父や祖父の位によってある年令になると、特別に手柄を立てなくても、位を貰うことができました。
この頃役人になるためには、大学に入学していくつかの試験に合格しなければならないという決まりになっていました。
けれども、父や祖父のおかげで、位を貰うことができる者は、大学に入ったり、試験に合格したりしなくても、役人になることが出来たのです。
そのため、貴族たちは、親子引き続いてて役人になり政治に関係しました。
こうして、貴族と一般の人々との隔たりは、次第に大きくなっていきました。
奈良時代の初め頃にはこうした貴族も、大伴氏とか佐伯氏とか阿倍氏とか石川氏など、いろいろな家筋のものがありました。
しかし、その中から次第に頭を持ち上げてきたのが藤原氏です。
藤原氏は、大化の改新に一番手柄のあった、中臣鎌足の子孫です。
中臣鎌足の子、不比等も律令をつくるのに大変手柄があり、天皇から重んじられていました。
そして、その娘の光明子は、聖武天皇の皇后になるというほどでした。
不比等の子どもは四人いましたが、それぞれ家を建て南家・北家・式家・京家と呼ばれました。
これらの藤原氏の一族は律令政治を進める上に、いろいろとカを尽くしました。
桓武天皇の政治の立て直しの中心になったのも、藤原氏の人々でした。
他の貴族をしりぞける藤原氏
こうして、藤原氏は、代々政治を推し進める中心となりましたが、他の貴族で、これに反感をもつ者がでてくるのも当然です。
橘氏や大伴氏や佐伯氏などが、ときどき藤原氏を倒そうと計画しましたが、いずれも成功しませんでした。
先に起こった藤原種継の暗殺事件も、その一つです。
この事件を計画したのは、大伴家持といわれ、事件の起こった2ヶ月前に家持はすでに死んでいたのですが生きていた頃に授けられた位も、奪われてしまいました。
また、家持が仕えていた皇太子の早良親王も、同じような疑いで、皇太子を辞めさせられました。
早良親王は桓武天皇の弟弟子たちが、藤原氏とは、仲が良くないので、この事件を理由に皇太子をやめさせ、かわりに、天皇の長男の安殿親王を皇太子にしたのです。
安殿親王の母は、藤原氏から出た人ですから、藤原氏にとっては都合がよかったのです。
このように、藤原氏は自分たちに都合の悪い皇太子は、何かと理由をつけてやめさせ自分たちに都合のよい皇子を、皇太子にすることにつとめました。
桓武天皇が亡くなると、安殿親王が天皇になりました。
平城天皇です。平城天皇は、三年で位を弟の嵯峨天皇に譲りました。
この頃、藤原氏の中でも、北家の内麻呂の勢いが盛んでした。
ところが平城天皇に愛された、藤原薬子という人がいました。
薬子は、式家の藤原種継の娘でしたが、兄の仲成と相談して、平城上皇を奈良に誘い出し、上皇をもう一度天皇の位につけて、政治を思うままに動かそうとしました。
しかし、坂上田村麻呂らの軍に敗れ、薬子は毒を飲んで自殺しました。
この事件を薬子の乱といいます。
この争いは、朝廷内部の争いであるとともに、藤原氏内部の争いでもあったわけです。