今回は菅原道真について、日本の歴史を紹介します。
薬子の乱で嵯峨天皇に信用され、その相談相手となったのは、北家の藤原冬嗣です。
嵯峨天皇に続いて淳和天皇、仁明天皇が、それぞれ位につきましたが、その間も嵯峨上皇が大きな力をもっていました。
冬嗣やその子、良房も上皇の信任う受けて、その地位を固めました。
ところが、嵯峨上皇が亡くなると、良房はそのとき皇太子であった恒貞親王のお付きの伴健岑とか橘逸勢が、謀反を企てたと言いふらしました。
そして、良房の甥にあたる道康親王を、新しく皇太子に立てました。
橘逸勢は、空海や嵯峨天皇と並んで字の上手な人として有名ですが位は低く、謀反を企てるようなことはとても考えられません。
伴健岑も同じです。
この事件は、良房が、自分の甥を天皇にしたいために、作り上げたものと考えられます。
こうして、勢力を伸ばしていった良房はやがて太政大風になりました。
太政大臣はよほよほどの人でなければ、なれなかった最高の位です。
さらに良房は、9才で位についた清和天皇を助けるために、摂政となり天皇に代わって政治を行うことになりました。
皇族以外の人が摂政になったのは、これが最初です。
清和天皇は、20年たらずで、位を9才の陽成天皇に譲りました。
良房の養子基経が、父についで摂政として政治を行いました。
この二代で藤原氏は、もはや、押しも押されもせぬ地位を固めたのです。
良房も基経も、藤原氏の地位を固めるために他の貴族を退けたり、自分に都合の悪い皇太子を辞めさせたりしましたが、それほど、悪い政治なしたわけではありません。
政治を引き締める努力を、怠るようなこともありませんでした。
特に基経などは、陽成天皇の行いが荒々しくて、人々を苦しめるので、天皇を辞めさせて、藤原氏とは関係の薄い光孝天皇を立てたほどです。
光孝天皇は、自分が天皇になることが出来たのは、基経のおかげであると考えました。
そして、基経を関白という役につけて、政治のことは一切基経に任せました。
しかし、極わずかの人が政治を握ることは、他の貴族の希望を無くさせるばかりでなく権力を握ったものが、我がままをする危険もあります。
そこで、次の宇多天皇は、藤原氏のほかに菅原道真を用いて右大臣にしました。
菅原氏は元々、埴輪などをつくることを受け持った土師氏の子孫でした。
その家柄は低かったのですが、菅原道真の祖父清公が、唐(中国)に留学してきてから、急に学者として重んじられるようになりました。
菅原道真も少年の頃から秀才として知られ、学問に秀れていました。
そのころの役人の半分が、菅原道真の教えを受けたといわれます。
菅原道真は、宇多天皇の信用を受けて、次第に高い位に昇りました。
そして、その娘を天皇の夫人とするほどでした。
こうした様子に、藤原氏が黙っているはずがありません。
やがて、宇多天皇が位を退いてて、若い醍醐天皇が位につきました。
すると、まもなく菅原道真は、右大臣から大宰権帥に落とされ、九州の大宰府に流されてしまいました。
「菅原道真は自分の婿である斉世新王を、天皇にしようとたくらんでいる」というのが、その理由でした。
これは、そのとき左大臣であった藤原時平のたくらみでした。
太宰府庁へ流された菅原道真は、寂しい月日を送っていましたが、二年の後、ここで.死にました。
菅原道真が確かな証拠も無く、遠く九州へ流され、そこで寂しく死んだことは世の中の人々の同情をひきました。
菅原道真が死んで間もなく、京都に雷が落ち菅原道真のことを告げ口した人が雷に打たれて死にました。
人々はこれを天の神の怒りと菅原道真の祟りを結び付けて考えるようになりました。
朝廷ではこの祟りを和らげるために、菅原道真をもとの右大臣に戻しさらに太政大臣の位を贈りました。
そして、京都に天のことえお司る神として祀られていた天神社に、菅原道真を合わせ祀るようになり、やがて太宰府にも建てられました。
このため天神様と言えば、いつの間にか菅原道真のことを指すようになったのです。