今回は平治の乱について、日本の歴史を紹介します。

保元の乱によって、朝廷や貴族の間のごたごたが、無くなったわけではありません。
今度は保元の乱に手柄のあった武士の頭、源義朝と千清盛とが勢力争いを始めました。

平清盛は、後白河天皇と親しくなり、おいおい高い位につけられました。

ところが源義朝は、保元の乱には、一番手柄を立てたのに、その褒美や位が、清盛よりも悪かったのです。

そのために義朝は、非常に不満でした。
やがて後白河天皇は、位を二条天皇に譲って上皇となりました。

その頃、上皇のお気にいりの貴族であった藤原信西と、藤原信頼とが勢力を争っていました。
藤原信西は、非常な学者で、朝廷の儀式などにも詳しい人でした。

この藤原信西が、平清盛と親しく、藤原信頼が源義朝と手を結びました。
そして藤原信西と信頼は、互いに相手の隙を狙っていたのです。

保元の乱から3年経った1159年(平治元年)12月に、平清盛は、紀伊国(和歌山県)にある熊野神社へお参りに行きました。

熊野神仲社は、那智山と本宮と新宮との三山にわかれており、このころ皇室や貴族の間では、盛んに信仰されていました。

清盛も、それに習って、お参りしたのです。

熊野神社へ行くには、普通紀伊国を通って行くのですが、「平家物語」には、清盛は伊勢の海を渡っていったと書かれています。

そのとき、清盛の船にスズキという魚が飛び込んできたので、大変めでたい印だと、喜んだということです。

このようにして、清盛が京都を留守にしている隙を狙って、藤原信頼と源義朝は、兵を率いて後白河上皇の御所三条殿を不意打ちにしました。

さらに、内裏へも攻め込んで、上皇も天皇も押し込めてしまいました。
こうして信頼や義朝は、自分たちで、勝手に重い役目に就きました。

そのとき藤原信西は、いち早く大和国(奈良県)へ逃げ出し、途中で穴を掘って、その中に隠れ、竹筒で息をしていましたが、追い駆けてきた源氏の兵士に見つかり、とうとう首を跳ねられてしまいました。

京都で、このような事件がおこっていることを聞くと、清盛は、さっそく京都へ引き返してきました。

その途中、摂津国の阿倍野(大阪市)で、義朝の子義平が、大兵を引き連れて待ち構えているという噂があって清盛を驚かせましたが、それも嘘だったので清盛は、無事に京都へ返ることができました。

そして、すぐに平氏の武士を集めました。
こうして清盛の軍勢は、源氏方が立てこもっている皇居を攻め立てました。

そのとき、義朝のの長男義平と、清盛の長男重盛とが、紫衰殿の前の左近の桜・右近の橘を巡って、激しく戦ったと伝えられています。

しかし、ついに源氏方の負け戦となりました。

そして藤原信頼は、京都の近くで殺され、義朝は関東へ逃げて行く途中、尾張国の野間(愛知県)で、自分の家来の家に泊まっているとき、風呂場で殺され、義平も近江国(滋賀県)で見つかって自殺しました。

そのとき、義朝の子頼朝は、わずか13才でしたが、父と一緒に逃げる途中ではぐれ、ついに平氏方に捕まりました。

しかし清盛のまま母、池禅尼のとりなしで、頼朝が死んだ自分の子どもに似ているというので命を助けられ、伊豆の蛭が小島(静岡県)に流されました。

また同じく義朝の子の牛若(後の義経)も、爺は助けられ、京都の鞍馬寺に預けられました。

この戦争を平治の乱と言い、戦はこのようにして、片付きましたが、この後平氏の勢力は、にわかに強くなっていきました。

清盛の位は、目覚ましく進み、やがて全ての政治を平氏の一族で動かすようになりました。