今回は平安時代に栄えた平氏について、日本の歴史を紹介します。

保元の乱と平治の乱の後にも、皇室の内輪もめは続きました。
このころ後白河上皇と二条天皇との仲が悪く、どちらも平氏に頼ろうとしました。

清盛は、これを上手く利用して、ますます自分の勢いを強くしていきました。
1167年(仁安二年)に清盛は、とうとう太政大臣になりました。

政治の上での最高の位です。

そればかりでなく平氏の一族は、ほとんどが高い位につきました。
清盛の妻の妹は、後白河法皇の妃になりました。

その間に生まれたのが、高倉天皇です。
また清盛の娘は高倉天皇の妃となり、安徳天皇を生みました。

このようにして、清盛は皇室の親戚となり、自由に朝廷を動かすようになりました。

平氏の荘園は、全国に500あまりの多くに昇り、藤原氏が栄えていたことろにも、負けないほどになりました。

一族の公卿は16人、昇殿を許された人は30人あまりもいて、平氏の中には「平氏でなければ人間ではない」というものさえあるほどでした。

平氏は、こうして国の政治を独り占めにしました。
平氏は、もともと武士ですが、保元の乱以後、京都に住み、それまでの貴族の真似をしてきました。

このため、暮らしぶりも、華やかになりほとんど藤原氏の人々と、変わらないようになりました。
武士でありながら、眉墨を描いたり、歯に黒金をつけたりしました。

これが、平氏の公達でした。

このようにして、平氏の政治も藤原氏の政治と、あまり違いませんでした。
ただ外国との付き合いだけは、これまでの貴族と違って活発に進めました。

そのころ中国は宋の時代でした。
宋とは、だいたい平安時代の中頃から、民間の貿易が行われていました。

そこで、前々から宋との貿易に目をつけていた清盛は、音戸の瀬戸(広島県) を開いたり、摂津の福原(神戸市)に別荘を建てて、兵庫の港(神百戸港)を築いたりしました。

ここに宋の船を呼び寄せ、今まで九州の博多などでやっていた貿易を行い、大きな利益をあげました。
そして清盛は、後白河法皇を福原に招いて、宋の貿易船を見せたりしました。

なお、清盛は航海の安全を祈るために、瀬戸内海の厳島神社を信仰し、立派な社殿を建てて、京都の貴族たちにも、お参りさせました。

清盛は、宋との貿易で、ますます豊かになりました。
それで、勢いに任せて自分勝手な政治をし、貴族の藤原氏や、京都やその付近の寺の荘園を、横取りするようなこともありました。

そのため、後白河法皇や藤原氏の人たちをはじめ、平氏のわがままを憎む者が、あちこちに、たくさん現れてきました。

1177年(治承元年)、後白河法皇の傍に仕えていた藤原成親・藤原師光、また平康頼や僧の俊寛などという人たちが、京都の東山の鹿が谷に集まり、平氏を滅ぼそうとする計画をたてました。

この酒盛りのとき、瓶子(とくり)が倒れたので一回は手を叩いて、平氏が倒れたと言って、喜び合いました。

清盛は丁度、福原に行って留守でした。
この機会を狙って、平氏を倒そうとしたのです。

しかし、この計画は、すぐ平氏に知られてしまいました。
鹿が谷に集まった人の一人源行綱が清盛に、こっそり知らせたからです。

清盛は、ただちに京都へ返り、師光を殺して、成親・俊寛らを鬼界島(九州南方の島。今の硫黄島といわれる)に流しました。

これを鹿が谷の変といいます。

鹿が谷の変の後、後白河法皇と清盛の仲は、たちまち悪くなりました。
清盛の長男重盛は、このことを非常に心配していましたが、やがて重盛が死ぬと、清盛は、法皇な鳥羽殿という屋敷に押し込めてしまいました。

兵庫(今の神戸港)は、古くから和田泊と呼ばれた港ですが、港の西にある和田岬は、西風な防ぐたけで、東と南からの高い波を防ぐことが出来ませんでした。

そこで清盛は船が安全に出入り出来るように、東風と南風を防ぐための島をつくることになりました。

工事は全国から人夫を集め、1173年(承安3年)頃から始められましたが、潮の流れが速いので、少し土をもっても、すぐに崩されてしまい、中々はかどりません。

この頃、生きている人を埋めると工事が上手くいくという、迷信がありました。
人々は清盛に、この人柱を立てて工事の完成を祈ることを進めました。

しかし清盛は、「罪の無いものを生埋めにするのは、よくない」といって、人柱の代わりに、お経を刻んだ石を海の中に沈めさせました。

こうして出来たのが経島ですが、迷信に捉われないで、思った通りに仕事を進めた清盛の強い気性を知ることができます。

しかし清盛は、この工事が完成するのを見ないで死にました。