今回は源平の戦いについて、源頼政と源頼朝を中心に、日本の歴史を紹介します。


源頼政は源頼光の子系です。

年をとってから三位にのぼりましたので源三位頼政といいました。
保元の乱のときには、平清盛らとともに崇徳上皇の軍を破りました。

その後、しばらく清盛と親しくしていましたが、人々が平氏に背くようになったのを見て、今こそ平氏を討つべきだと決心しました。

源頼政は、後白河法皇の皇子以仁王から、平氏を滅ぼせという命令を貰いました。
この命令は、全国に散らばっている源氏に伝えられました。

さらに源頼政は、延暦寺や興福寺などの僧兵と相談し宇治の平等院にこもって戦いました。
しかし、戦は頼政に不利でした。
平氏の大軍に破られ、ついに以仁王も源頼政も戦死しました。

しかし、この戦をきっかけとして、源氏の武士は各地で立ち上がり平氏と戦い初めました。
そこで清盛は、1180年(治承四年6月、都を摂津の福原(神戸市)に移しました。

しかし、急に移ったために、皇居の準備も出来ていなかったので、貴族たちは、福原の都を嫌いました。
貴族たちの気持ちをなだめるため、清盛は、また同じ年の11月に都を京都へかえしました。

人々は、いよいよ不平を言うようになりました。
おまけに、飢饉や悪い病気さえ流行しました。

世の中の動きは、ますます平氏に不利になっていくばかりでした。

1180年(治承四年)8月、平治の乱の後に、伊豆国(静岡県の二部)に流されていた源頼朝は、妻、政子の父北条時政の助けを受けて、立ち上がりました。

しかし、平氏方の大庭景親の軍と戦って敗れました。
頼朝は、このとき大木の洞穴に隠れたのを敵方の梶原景時に助けられたと伝えられています。

やがて頼朝は、房総半島に渡り、関東の豪族たちの助けを得て勢力を、盛り返しました。
そして、同じ年の10月、相模国の鎌倉(鎌倉市)に入り、ここを根拠地と定めました。

鎌倉は、もともと、八幡太郎義家の父、源頼義が源氏の氏神の八幡を京都の石清水から由比郷へ移したところで、源氏とは深い繋がりがありました。

また自然の地形も、三方が山に囲まれていて、攻め難く、守り易い土地でした。

そして頼朝は、鎌倉が東北地方と京都とのほぼまん中にあり、源氏の力を伸ばすのに都合がよいと考えたのです。

頼朝が立ち上がったことを聞いた清盛は孫の維盛を大将として頼朝を討つよう命じました。
頼朝は平氏の大軍を迎え撃つために黄瀬川に兵をすすめました。

このとき、京都の鞍馬寺から東北地方の平泉(岩手県)の藤原氏のもとに行っていた義経も兄の頼朝のところへ駆けつけました。

源氏と平氏の両軍は、駿河(静岡県の一部)の富士川を挟んで向かい合いましたが維盛の軍勢は、夜中に水鳥の飛び立つ音に驚いてろくに戦もしないで京都へ逃げ帰りました。

平氏の意気地の無さに呆れ、日増しに盛んになる頼朝の勢いを見て国々の武士や僧兵たちは、次々に平氏に背くようになりました。

1181年(養和元年)清盛は、激しい熱病にかかって死にました。

平氏の勢いは、これから一日一日と、衰えていきました。